ホーム » 安曇野の陽だまりから » 遠かりし記憶 | スウェーデンログハウス株式会社

遠かりし記憶

2012年4月15日(日)02:50
カテゴリ:安曇野の陽だまりから  トラックバック:URL

2012/04/15

 

 

 

 

 

 

 

甲府の信玄祭を見物したい……。ある日、母が言った。
それじゃ、久しぶりの墓参をかねて行ってみようかと、車中泊の短い旅に出かけた(山梨県下部町にウチの菩提寺がある)。
途中、寄り道をし、高尾にて友と会し、名所と聞こえた桜並木を眺め、さらに山沿いに奥多摩街道を登った。
その時、唐突に三十年以上も昔の過去に出くわした。
こうしたタイムトラベルは珍しくない。しかし、予期していなかった出来事に小さな興奮を覚えていた。
「ここだ、ここだ。この家だ」。高校のころ、仲間たちと来たのは確かにここに違いないと思った。
友人、カズヒロの親戚が持っていた別荘に、中学のころからの連れ五人で遊びに来た時のことだ。

築三年の立派な家であると聞いていたが、実は住まなくなってから三年の勘違い。戦後まもなくごろの築であろうボロ家であった。
今ふうに良く言えば「古民家」とも言えなくはないが、その時の私たちの目には幽霊屋敷としか映らなかった。
思わず土足で上がりたくなるほどのそれは、辛うじて電燈はあるが水道の水さえ出ないという有様で、畳は畳の体(てい)をなしていない。
けれど、他に泊まるところもない貧乏少年たちにとり、それは有り難い館(やかた)であるに相違なかった。

二日目の夜、散歩に出かけていたオサムとカズが慌ただしく帰ってきた。
トンネルの向こうにダムがあるらしい事を知って行ってみようとしたのだが、穴の奥があまりに真っ暗で先が見えない。それで怖くなり、走って帰ってきたのだと言う。
間をおかず、カズヒロが言った。「じゃ、皆んなで行ってみようぜ」。ちょっとした肝だめし気分の冒険である。
「だったらラジカセもっていこうよ……」。カオルの提案は怖さを紛らわすためのグットアイデアであり、そして私は、それにピッタリのカセットを持ってきていた。
当時、まったくメジャーでなかった海援隊のライブ録音テープだ。海援隊とは、金八先生でブレイクする前の武田鉄矢氏が率いるフォークグループのこと。私は、それに執心する変わり趣味と呼ばれる少年だったのだ。
他のヤツらは、オフコース(小田和正)かアリス(谷村新司)の方が良いと初めは言ったが、私は譲らなかった。
そして、 目に見えぬ物の怪の如き気配すら感じるほどの闇のトンネルは、そのエコーも手伝い、とたんに臨場さながらの爆笑のコンサート会場となった(海援隊コンサートは歌うより喋りの方が長くて面白い、という点では さだまさし のコンサートと肩を並べていた)。
その昔、夜道を歩く旅人が、恐怖を忘れるために笑い茸を食べたという故事を現代(いま)に再現した成功の談である。

かくして、長いトンネルと短いトンネルを二つ三つ抜け、視界が開けた。満天の星を映し、ダムは滔々と水をたたえていた。

ダムはまさしくただのダムであり、案外と、何ら感嘆はなかった。けれど、あの空は忘れない。
文字どおり、手をのばせば掴めるのではと思うほど特大の星だ。「こんなデカイ星はじめて見たよ……」と、誰かが言い、私は言葉をなくしていた。

興奮と心地よい疲れとともに幽霊屋敷(ベースキャンプ)に戻り着いた時、空は明けかけ、藍と茜の色が混在していた。
それにしても、あれから更に三十余年、よくも残った廃屋ではあるが、また、それを見つけた奇跡に驚かざるをえない。

あのころ……どうして、あんなに楽しかったのだろう。

okuta

 

当時、ディスコと空手に夢中だったカズヒロは、気づけば、ブラウン管の中で脚光をあびる人となり、私のビジネスパートナーとなったカオルは、些細な出来事で行方を失った。
また、真面目がスーツを着た…と揶揄されたカズは堅実なサラリーマンになり、ひょうひょうと生きていたオサムはホテルマンになったと聞く。
けれど、そのつながりは今はなく、ただ、懐かしく想うのみである。

 




コメントをつける