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公利公欲-2

2012年4月21日(土)10:06
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2012/04/21

住職尊師は、ベソをかく私に、幼子でもあやすように昔話を聞かせはじめた。
尊師は得道(とくど)する前、しばらくサラリーマンをしていたらしく、私ら俗世の者の事情に理解が深いのもその故だろうか。
なんでも「ブリヂストン」とかいう有名な会社に居られたそうで、その創始者である石橋正二郎なる凄い人の訓とうを直接受けた最後の世代なのだと言う。
それで、折にふれ、石橋氏から聞かされたという草創期の苦労談を話して下さった。

正二郎の家は代々つづく足袋屋だった。
時が明治になり、洋装で歩く者も多くなったころ、老舗なりとも過当競争をまぬがれえない立場にあった。
ところで、人の足の大きさは皆ちがう。だから、いろいろなサイズがあり、サイズによって足袋の値段も違う。至極当然なことであり、少なくとも当時の足袋業界ではそれが当たり前で、誰も疑問を持たなかった。

そこで、正二郎は考えた。大きさに違いがあるからといって、使う生地材料に大差はなく、手間も同じだ。ならば、いっそ、全部のサイズを同じ値段にしてしまえ……。そうすれば、いちいち、文数(もんすう)ごとに何ぼ…と、計算する手間がはぶけて面倒がない。客だって喜んでくれるに違いない……と。
その目論見は見事に当り、当初は激しく非難した同業他店らも、しだいに正二郎を倣うようになっていった。

 

当時、日本は戦時体制の只中にあり、軍需産業華々しき時代であった。
正二郎の事業もそれに追随するを余儀なくし、足袋の裏底にゴムを貼った”地下足袋”の発明を世に出した。
その頃の歩兵などというものは皆貧しく、草鞋(わらじ)のごとき粗末なものを履いて戦場を駆けていた。対し、滑らず機能的な地下足袋は、またたく間に各地の軍に採用され、後の大戦の折、日本軍を勝利に導いた要因の大は「石橋製の地下足袋(アサヒ足袋)」にあった……、とまで言わしめた。
(私的には、戦争への間接的貢献ということに個人的反発が無きにしもあらずであるが、このころ、炭坑労働者や製鉄・造船業などの職人らに広く普及し、国家経済発展の一助となった事実には感心する)。

正二郎は、ゴムという新素材に我れと日本の未来を託そうとした。
それで、足袋屋の身代は他の兄弟たちに譲り、国内ではまだ皆無であったゴムタイヤ専門の会社を起こした。
けれど、初めから上手くいくわけもなく、たちどころに返品の山が築かれた。タイヤの形だけは真似できても、肝心な性能が外国製におよばなかったのだ。
無論、すぐに改良研究に取りかかるべき……と焦るのは凡人の浅知恵というもの。
改良するには時と金が要る。それよりも、問題は今ある返品の山だ。これを売りさばかなければ、その費用も出やしない。
正二郎はどうしたか……。
自動車やバイクにとっては性能不足でも、荷車や人力車になら充分使える……と、ふんだわけである。
(そして、それは「リヤカー」へと発展した)。

かくして、諸事、正二郎の見込みに叶い、今にその証しを築いた事は言うにおよばない。

 

尊師いわく、「全ての事は、結果のための準備であり方便なのです。『因』も『果』も、実は始めから用意されていた約束事なのですよ。それを仏法では『因縁(いんねん)』と言います」

このような好例を、発想の転換……などと世間では単純に評するが、やはり御僧侶なるお方の申される事は世法を超えている。実に感心することしきりであり、世に、無駄な苦労も無駄な失敗もない……。万事、塞翁(さいおう)が馬……、という教えであるを解し、心に深くとどめた。

 

 




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