序文[八月の空に想う]
1962年8月6日、私は新潟県新潟市に生を受けている。それは、広島に原爆が落とされた17年目の忌日だ。この一事は偶然であるにしても、いつも自分の誕生日の朝に、テレビで報じられる原爆祈念式典の様子を観ながら、その日が普通 の日ではないのだなという意識を幼い頃から持っていた。
そして、20歳をわずかに過ぎた頃、もしもあと2日、ポツダム宣言の受諾が遅れ敗戦が延びていたとしたら、次は私の生まれ故郷である新潟に、人類史上三度目の原爆が投下される計画になっていたという事実を知った。その時、私の胸に希有なる我が命というものへの愛おしさが押し寄せ、心を強く傷めたのを覚えている。仮にそうであったなら、私は今ここに存在していないのかも知れないと思った(無論、私の両親がそこに居たことが理由だ)。私がこの日、この地に生まれたのはまさに奇縁なのだ。むしろ、選んで生まれたと言ってもいいのかもしれない。
こう考える時、広島あるいは長崎という、望まずして負の遺産を背負うといった責務を負わされた地に、感心を持たずにはいられない思いがした。
そんな感情の経緯により、私は子供の頃から反戦・反核への想いを漠然と胸に秘めながら生きてきた。でもそれは形にならず、結局何をすれば良いのか分からぬ まま漫然と歳を過ごし、気がつくと世界は再び戦争の脅威にさらされ、慌てうろたえている自分がいる。それが実のところだ。
(中略)
それにしても、少し前までは平和を念望しない人はいないと思っていたけれど、現実にはそれを望まない者がいることも確かだということがこれで分った。それは、「平和を欲すれば戦争に備えよ」(古代ローマの格言)などと言ってはばかろうとしない勘違いの輩だ。その愚かな者たちは、互いに「聖戦」と豪語し、己が小国の為に世界を滅亡の危機に陥れようと企んでいる。
「愛」も「慈悲」も持たない神など私は知らない。公然と殺人が容認される戦争など私は認めない。
一つ言えるのは、かつて、世界平和の大題目、聖戦の美名を掲げた戦争におき、本当にその大儀が成された事実がいったいあったであろうかと、私たちはもっと強く問うべきだということ。
つまりは、人とは生きるべきものであり、それは正義や幸福という目的よりも優先される一大事なのだ。理屈や思想ではなく、明快なる命の尊厳に外ならず、まして不意に奪われる生命の優劣軽重など論ぜようもない。
かつて、「人類にとっての勝利は、互いの相違点を認め許し合うことだ」と語ったジョン・F ・ケネディの言葉を思い出す時、銃を振りかざす主戦論者も、拳を振り上げる非戦論者も、皆その手を胸の下に降ろし、野の花を摘み愛でるべきことを知ってほしい。
そして、過去の戦争がどれほど悲惨であり、さらには現代の戦争が意味する地球の破滅という黙示録を皆へ伝えなければいけない。
もし私が歌手ならば、その悲哀をわずか3分で語り、絵描きであるなら、きっと一瞬で目に観せるに違いない。けれど私にその才はなく、やはり厄介な言葉をつくすより術はない……。
そんな私の言葉はいかにも無力であり、それを読む人の多くは「耳が痛い!」「偽善はよせ!」と、うんざりし背を向けるかもしれず、読むことすら嫌う者も少なくないだろう。
しかし、それでも伝えなければいけないことが、この胸にあふれている……。
多くの識者が解くごとく、整然と論理づけることはできないけれど、せめて一粒の種を植えていくことが叶えば幸いと願う。
2002年12月21日
目次Contents
プロローグPrologue
第一章「戦争を見つめる」
- 原爆の爪痕 長崎原爆資料館にて
- 広島の黒い空
- 赤と黒だけの世界
- 悲惨な戦争
- 扉は必ず開かれる
- ケネディの遺言
- 共感共苦
- ソクラテスの憂鬱
- 一番になりたい症候群
- 天下の御意見番
- 大地の子
- 何ゆえの犠牲
- 鍬と胸飾と笛
第二章「平和を考える」
第三章「未来(あす)を望む」
- 平和への入口
- 音楽が伝えるもの
- 心のとまりぎ 安曇野平和芸術館の構想
- 泣けることの幸せ
- 無量の感謝
- 心の蘇生
- フラワーチルドレン
- あなたへ花を捧げたい
- 命こそ宝(ヌチドゥタカラ)
- 打ちそこねた終止符
- 炭坑のカナリア
- すれちがう言葉
- 確かな言葉
- 歓喜(よろこび)の歌
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